『30分でわかる般若心経』松原哲明(住職)
発行:1996年3月 三修社企画
難易度:★★★☆☆
資料収集度:★★☆☆☆
理解度:★★★☆☆
個人的評価:★★★☆☆
ページ数:76ページ
【本のテーマ】
般若心経の本文がどういう意味を持っているのか、一文ずつ解説をし、
本文中の語句に関連した言葉もわかりやすく解説していた。
【目次】
割愛
【概要】
摩訶般若波羅蜜多心経
これは、摩訶般若(サンスクリット語の音訳)の波羅蜜多(=「智慧」が完成することであり、
心を渇いた状態にしないこと。)を目指した心の経典である。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、
観自在菩薩(観音様)が深く波羅蜜多(上記)を行う時、
照見五蘊皆空、度一切苦厄。
五蘊(色・受・想・行・識)全てが「空」であると理解し、一切の苦厄を理解し、悟りに達する。
舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
舎利子よ。色は空とは異ならず、空も色とは異ならない。色は空であり、空は色である。
受・想・行・識亦復如是。
受・想・行・識もまた、同じこと(空)である。
舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
舎利子よ。これらの諸法は空相であり、生まれも滅びもせず、汚れたり浄化されたりもせず、
増えたり減ることもない。
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
無眼界、乃至、無意識界。
それゆえ、空の世界には色もなく、受・想・行・識もなく、眼・耳・鼻・舌・身・意も無ければ、
色・声・香・味・触・法も無いのだ。眼で見える世界から、意識の中の世界まで、
なにもかも無いのだ。
無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
十二因縁(無明・行・識・明色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)における「無明」などもないが、
全く「無明」が無いということもなく、また、「老死」が無いこともなければ、
全く「老死」が無いということも無い。
無苦・集・滅・道。
「四諦」である「苦・集・滅・道」についても同じ(無)である。
無智亦無得。以無所得故、
智も無く、得も無い。だから所得も無い。
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
菩提薩埵様は、般若波羅蜜多によって心に迷いや疑いがなく、恐怖もなく、
一切の邪悪な考えもなく、涅槃(悟りの境地)に到達する。
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
過去・今・未来のどの仏様も、般若波羅蜜多によって、
阿耨多羅三藐三菩提(サンスクリット語の音訳)を得た。
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。
だから、般若波羅蜜多(サンスクリット語の音訳、意味は「心を乾かさないように」)という言葉は
大切な言葉なのです。一切の苦を取り除くことができ、中身のある言葉なのです。
故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経
だから、般若波羅蜜多と唱えるのが良い。
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶と唱えるのが良い。
(サンスクリット語の音訳。
意味は、「ゆけり、ゆけり、彼岸にゆけり、共に彼岸にゆけり、敬礼する霊智」)
【感想】
さすが30分でわかる。と書いてるだけあって、分かりやすかった。
「空」っていうのは、非存在ではなく、一心である。と書いていて、一心がよく分からなかったけど、
「空」っていう言葉は、「から」っていう読み方もできれば、「そら」って読むこともできる。
空には雲があるけど、同じ雲は二度とないから、それは「ある」って言えないんじゃないか?
けど、雲は「無い」わけではなくて、確かに雲は「ある」とも言える。
みたいな、方丈記の「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」っていうのと似てるけど、そういう哲学的な捉え方もできると思って、「そら」としての「空」のイメージは般若心境の文を理解するのに、関係させられるのではないかな。と思いました。
そしたら、「色即是空、空即是色」も、「そら」と「くも」のイメージで捉えられると思いました。
あと、十二因縁の、自分がさとりの境地としてどの辺にいるのか、みたいな分類の言葉があるのに対して、完全な「分類」なんてない。ということを言っていて、つまりは、「分類なんてなんとなくイメージを伝えるために作ったものであって、明確な定義なんてないし、白か黒かの二極でもないし、もっと曖昧なものである。必要以上に言葉に明確さを求めて惑わされてはならない」というメッセージだと思いました。
羯諦羯諦波羅羯諦・・・は、一番大事なとこやのに訳してない(サンスクリット語の音訳)ってどういうことや!と思ったけど、伝道者の徳のあるお坊さん(?)が言っていた言葉を、ありがたいから、そのまま伝えようとしたんだろうなぁ。という気持ちも理解できました。しかし、その本当の和訳は知っておいた方が良いとも思いました。
「ゆけり、ゆけり、彼岸にゆけり、共に彼岸にゆけり、敬礼する霊智」
というのは、なんだかカッコいいな。と思いましたが、これとか「心を乾かさないように」という意味の「波羅蜜多」とか、全体を通して「憧れへの希求」みたいなものを感じました。
「こうありたい」という状態を強くイメージして、それに向かって精進しましょう。というメッセージだと思います。
だから、全体の意味としては、「心を乾かさないように」日々精進していくのは大切な事ですが、「こうありたい」という状態のイメージを言葉にすると、それが明確な定義や存在感をもってしまって、結局はその「言葉」に縛られたり、惑わされたりしてしまうことがある。だから、そうならないように気をつけなさい。という教えだと思いました。
僕の理解が全てではないし、あくまでこういう解釈もあるのかな、程度に読んでください。
あしからず。
般若心経の本文がどういう意味を持っているのか、一文ずつ解説をし、
本文中の語句に関連した言葉もわかりやすく解説していた。
【目次】
割愛
【概要】
摩訶般若波羅蜜多心経
これは、摩訶般若(サンスクリット語の音訳)の波羅蜜多(=「智慧」が完成することであり、
心を渇いた状態にしないこと。)を目指した心の経典である。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、
観自在菩薩(観音様)が深く波羅蜜多(上記)を行う時、
照見五蘊皆空、度一切苦厄。
五蘊(色・受・想・行・識)全てが「空」であると理解し、一切の苦厄を理解し、悟りに達する。
舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
舎利子よ。色は空とは異ならず、空も色とは異ならない。色は空であり、空は色である。
受・想・行・識亦復如是。
受・想・行・識もまた、同じこと(空)である。
舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
舎利子よ。これらの諸法は空相であり、生まれも滅びもせず、汚れたり浄化されたりもせず、
増えたり減ることもない。
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
無眼界、乃至、無意識界。
それゆえ、空の世界には色もなく、受・想・行・識もなく、眼・耳・鼻・舌・身・意も無ければ、
色・声・香・味・触・法も無いのだ。眼で見える世界から、意識の中の世界まで、
なにもかも無いのだ。
無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
十二因縁(無明・行・識・明色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)における「無明」などもないが、
全く「無明」が無いということもなく、また、「老死」が無いこともなければ、
全く「老死」が無いということも無い。
無苦・集・滅・道。
「四諦」である「苦・集・滅・道」についても同じ(無)である。
無智亦無得。以無所得故、
智も無く、得も無い。だから所得も無い。
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
菩提薩埵様は、般若波羅蜜多によって心に迷いや疑いがなく、恐怖もなく、
一切の邪悪な考えもなく、涅槃(悟りの境地)に到達する。
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
過去・今・未来のどの仏様も、般若波羅蜜多によって、
阿耨多羅三藐三菩提(サンスクリット語の音訳)を得た。
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。
だから、般若波羅蜜多(サンスクリット語の音訳、意味は「心を乾かさないように」)という言葉は
大切な言葉なのです。一切の苦を取り除くことができ、中身のある言葉なのです。
故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経
だから、般若波羅蜜多と唱えるのが良い。
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶と唱えるのが良い。
(サンスクリット語の音訳。
意味は、「ゆけり、ゆけり、彼岸にゆけり、共に彼岸にゆけり、敬礼する霊智」)
【感想】
さすが30分でわかる。と書いてるだけあって、分かりやすかった。
「空」っていうのは、非存在ではなく、一心である。と書いていて、一心がよく分からなかったけど、
「空」っていう言葉は、「から」っていう読み方もできれば、「そら」って読むこともできる。
空には雲があるけど、同じ雲は二度とないから、それは「ある」って言えないんじゃないか?
けど、雲は「無い」わけではなくて、確かに雲は「ある」とも言える。
みたいな、方丈記の「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」っていうのと似てるけど、そういう哲学的な捉え方もできると思って、「そら」としての「空」のイメージは般若心境の文を理解するのに、関係させられるのではないかな。と思いました。
そしたら、「色即是空、空即是色」も、「そら」と「くも」のイメージで捉えられると思いました。
あと、十二因縁の、自分がさとりの境地としてどの辺にいるのか、みたいな分類の言葉があるのに対して、完全な「分類」なんてない。ということを言っていて、つまりは、「分類なんてなんとなくイメージを伝えるために作ったものであって、明確な定義なんてないし、白か黒かの二極でもないし、もっと曖昧なものである。必要以上に言葉に明確さを求めて惑わされてはならない」というメッセージだと思いました。
羯諦羯諦波羅羯諦・・・は、一番大事なとこやのに訳してない(サンスクリット語の音訳)ってどういうことや!と思ったけど、伝道者の徳のあるお坊さん(?)が言っていた言葉を、ありがたいから、そのまま伝えようとしたんだろうなぁ。という気持ちも理解できました。しかし、その本当の和訳は知っておいた方が良いとも思いました。
「ゆけり、ゆけり、彼岸にゆけり、共に彼岸にゆけり、敬礼する霊智」
というのは、なんだかカッコいいな。と思いましたが、これとか「心を乾かさないように」という意味の「波羅蜜多」とか、全体を通して「憧れへの希求」みたいなものを感じました。
「こうありたい」という状態を強くイメージして、それに向かって精進しましょう。というメッセージだと思います。
だから、全体の意味としては、「心を乾かさないように」日々精進していくのは大切な事ですが、「こうありたい」という状態のイメージを言葉にすると、それが明確な定義や存在感をもってしまって、結局はその「言葉」に縛られたり、惑わされたりしてしまうことがある。だから、そうならないように気をつけなさい。という教えだと思いました。
僕の理解が全てではないし、あくまでこういう解釈もあるのかな、程度に読んでください。
あしからず。
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