2014年3月4日火曜日

74/100『子どもと大人』 三田宗介・河合隼雄・谷川俊太郎


読破っ!!
子どもと大人』 三田宗介・河合隼雄・谷川俊太郎
発行:1997年4月 岩波書店
難易度:★
資料収集度:★
理解度:★
個人的評価:★★
ページ数:206ペー



【本のテーマ】(表紙裏より抜粋)
大人は、子どもを卒業して大人になるのか、いや、子供の方が、より深く生きているのではないか、子どもの悪とは、無邪気とは、倫理の教育はいかにあるべきか、家族の崩壊と子どもの現実は、情報化社会に感動する能力とは・・・・・・、子どもと大人の関係を根底から捉えなおし、人間が生きるという意味を徹底的に問う。


【目次】
第一章 はだかの子ども
第二章 子どもと大人の関係
第三章 現代社会と子ども
第四章 子供の悪と倫理
第五章 ファンタジー
あとがき

【概要】
第一章 はだかの子ども
 「子ども性」と「子どもっぽさ」の違いについて述べ、「子ども性」とは、無邪気さを失わずにいる状態で、「子どもっぽさ」となると、気遣いができない、責任が取れないなどの否定的な意味になる。また「無邪気」を英語にした「イノセンス」という言葉との印象の違いにもついて述べ、「イノセンス」はマリアという具体像があるのに対し、「無邪気さ」にはあまりない。「子ども」という表現も一人であっても複数形の「ども」を使うという不思議さと、そこに「子ども」を「無邪気な存在」としてひとまとめにして捉えている感覚があるのではないか、と述べられていた。

第二章 子どもと大人の関係
 「大人」とは、人と人との関係を調整する機能を持つ人のことである。しかし本来は老若男女問わずそれぞれの人の中にはたくさんの人がいて、その年齢や人生の段階においてどれかが前に出てきているのではないか。という話をし、それを選択しているのが欧米のいう「自我」であると述べていた。そして、最近の若者の特徴に「しらけ」やすいということをあげ、感動するやつはばかだと捉え、子ども性のもつ「驚き」が失われていると述べていた。

第三章 現代社会と子ども
 現代社会の問題として、故郷の喪失、家族の崩壊、進歩主義などをあげ、自然とのつながりが心のふるさとを生むこと、親同士の関係性が子供に大きな影響を与えること、そして、ピカソの「I don't develop I am(私は私を発展させない)」という言葉をとりあげ、ただ「いる」という考え方を提示していた。

第四章 子供の悪と倫理
 子どもの悪として、「大人が喜びそうなことを言う」という無邪気ではない行為について過去の経験の独白として述べられていた。子どもはわからないことや本心でないことを形で押し通そうとしても見抜くことができる、と述べ、「形の教育」よりも「からだからからだへの教育」が大切であると述べていた。そして、そのような「形」の概念が出来てきた理由として、西洋文化の輸入をあげていた。
もともとの日本文化とは山川草木であったのに、そこへ西洋文化を無理やりに入れてしまったため、夏目漱石によると「文明開化の世界で生きるには上っ面か神経衰弱になるしかない」と述べられていた。(夏目漱石が特殊で、この発言も少し極端であるとも述べられていた。)さらに、バーチャルリアリティーの概念が浸透し、大学の授業もテレビを見ているような感覚になり、私語が増えたと述べ、いまや大学ではゼミくらいしか意味を持たない。とまで指摘していた。

第五章 ファンタジー
 「現実の多層性」をキーワードに、子供の世界に対する理解において、現実とファンタジーの二層構造になっているということを述べていた。事実は事実として理解しながらもなおもファンタジーを語る。という心構えが「子ども性」に繋がっている。また、宮沢賢治は昔、「無意識部分から溢れるものでなければ、多くは無力化詐偽である」と述べ、無意識レベルの感覚を大事にすることが「子ども性」の本質であると述べられていた。

【感想】
積読をよんだ!大学1年の頃に読みたくて買ったまま置いてあった。
内容としては表紙裏に書いていたほど深くまで掘り下げられていなくて、3者の対話形式でそのまま文字に起こされており、さらっと読める本となっていました。

しかし、「大人と子ども」というテーマはすごく興味を惹かれるものがあり、自分自身も考え続けていたテーマでした。自分の中では最終的に、「大人」と「子ども」と分断してしまうのではなくて、責任能力のある「子ども」なら、それでいい。むしろその方が良いのではないか?という結論に辿り着いていました。すると、本の中で、「子ども性」と「子どもっぽさ」という話がでていて、「子どもっぽさ」で無責任、無配慮なのはよくないけれども、「子ども性」として、無意識レベルを大切にするのは無邪気さを維持できる方法だという風に書いてあって、自分の考えと近くて共感できました。

また、「からだからからだへの教育」というテーマも興味深く、ある先生が国語の授業で、一つの詩をとりあげた時、「この詩はとても良いです」と大きな声で朗読し、涙を流した。というエピソードが書かれていて、実は自分も似たような経験をしていて、小学生の時、道徳の授業で「原爆」の話を読んでいたとき、朗読していた先生が途中で涙ぐんでしまい、教室を出て、いったん授業が中断してしまう、ということがありました。その時分は原爆の話の重みも分からなかったのですが、「先生が泣いた!」ということがすごくインパクトとして残っていて、「大人にならないと分からないことがあるんだなぁ。」とか「感受性のある先生から教わっているんだ。」と心のどこかで感じたのだと思います。

最近の若者の「感動」が薄れている。という話も共感できました。もう何十年も前から言われていたのだなぁ。と思いました。「既視感」といわれる、「あー、あれね、知ってるよ。聞いたことある。」という感覚が広まってしまっているのは、本当に残念なことだと思いました。しかし、現役若者として、「知っている」と「体験したことがある」の間には大きな違いがあると自覚して、体験した時の「感動」を大切にしたいな。と思っています。

そして、「ファンタジー」の話では、ファミコンが出てきた時代の話だったので、ゲームの話にとどまっていましたが、(彼らは総じてゲームのファンタジーには限界がある。と否定的でした)今の時代では、アニメ・漫画のファンタジーの存在がすごく大きくなっているのではないかと思い、もしこの三方が今対話をするなら、それらの存在をどういう風に捉えるのかな。。と思いを巡らせました。
しかし、現実から受ける影響の強さによって、ファンタジーの強さも比例的に強くなる。という主張が印象に残って、現実世界で、表面上は満たされた結果、根本的な問題が見えて来るようになり、そのことへの不安や不満が増え、その結果ファンタジーを求める。という主張は納得できました。
そうなると、今アニメ・漫画・アイドルなどのファンタジーが求められているのは、裏返せば、現実世界の根本的な問題がより深刻になっているのではないか。という風に考えるようになりました。

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