『キュレーションの時代』佐々木俊尚(フリージャーナリスト)
発行:2011年2月 ちくま新書
難易度:★★★★☆
資料収集度:★★★★☆
理解度:★★★☆☆
個人的評価:★★★☆☆
ページ数:311ページ
【本のテーマ】(表紙裏より抜粋)
テレビ、新聞、出版、広告――。マスコミが亡び、情報の常識は決定的に変わった。ツイッター、フェイスブック、フォースクウェアなど、人と人の「つながり」を介して情報をやりとりする時代が来たのだ。そこには人を軸にした、新しい情報圏が生まれている。いまや誰もが自ら情報を選んで、意味づけし、みんなと共有する「一億総キュレーション」の時代なのである。シェア、ソーシャル、チェックインなどの新現象を読み解きながら、大変化の本質をえぐる、渾身の情報社会論。
テレビ、新聞、出版、広告――。マスコミが亡び、情報の常識は決定的に変わった。ツイッター、フェイスブック、フォースクウェアなど、人と人の「つながり」を介して情報をやりとりする時代が来たのだ。そこには人を軸にした、新しい情報圏が生まれている。いまや誰もが自ら情報を選んで、意味づけし、みんなと共有する「一億総キュレーション」の時代なのである。シェア、ソーシャル、チェックインなどの新現象を読み解きながら、大変化の本質をえぐる、渾身の情報社会論。
【目次】
プロローグ ジョセフ・ヨアキムの物語
第一章 無数のビオトープが生まれている
第二章 背伸び記号消費の終焉
第三章 「視座にチェックインする」という新たなパラダイム
第四章 キュレーションの時代
第五章 私たちはグローバルな世界とつながっていく
あとがき
【概要】
第一章 無数のビオトープが生まれている
知る人ぞ知る、ブラジル生まれの先鋭的な音楽家、ジスモンチ・ヨアキム、体調不良により活動を休止していたが、再び活動再開が決まった時、音楽プロモーターの田村さんが、どのような手法で、どこに的を絞ってPRを行い、七〇〇席の会場のチケットを完売させ、追加公演の五〇〇席も売ったか。が述べられていました。そこから見えてくるのは、趣味嗜好が細分化した世界の中で、細い川の先を見つけ、そこをたどって行く、というような地道で、生物探検家のような作業だった。著者はそのような趣味嗜好や情報ネットワークが細かく細分化された状態を生物の「ビオトープ」に例え、これからの情報社会の行く末を考えるきっかけとした。
第二章 背伸び記号消費の終焉
映画産業と音楽産業をとりあげ、その二つの隆盛には共通点があると述べていた。80年代にはVHSカセットとCDが普及し始め、革新的であったため、どちらの業界も大きく盛り上がった。90年代初頭にバブルが崩壊してからも、「コンテンツバブル」として余韻を残していたほどであった。しかし、90年代のDVDとCDラジカセの普及からは、80年代ほどの「革新性」のない普及であったため、その予想に反して盛り上がりを見せなった。そしてついにHMV渋谷店が閉店したのは象徴的な出来事であった。その背景には、インターネットネット音楽事業の登場もあるが、マニュアル化による画一化のし過ぎもあると著者は指摘していた。
「アンビエント化」という言葉は、「動画、音楽、書籍などのコンテンツを全てオープンに流動化し、いつでも、どこでも手に入るような形で一面に漂っている状態」という意味であり、コンテンツ産業は水に上から下に流れるという法則があるように、最終的ゴールとして必然的にその方向に向っている。アンビエント化が進むにつれて、コンテンツはよりフラット化され、ジャンル区分が不明確になり、大衆向けのマスメディアのあり方に変化を要求する。
そこで次に、1960年から、2000年代までの「大衆」に対する感覚の変化を述べていた。
1960年代末の永山則夫氏の殺人事件と、投獄中に書いた本、「無知の涙」が時代を象徴している。その頃は「ムラ社会・記号消費・パッケージ化」の時代であり、「まなざしの存在」が事件の大きな原因のひとつであった。しかし、1997年の酒鬼薔薇氏の殺人事件、2008年の加藤智大氏の殺人事件では、「まなざしの不在」が事件の大きな原因の一つとなっている。そこには、「ムラ社会」から「透明な自己」への変容がある。「2ちゃんねる」ユーザーは実は30~40代会社員のユーザーが中心であり、ネタで自虐している。
ここから見えてくるのは、この数十年で「つながり」に対する価値が上がってきている。ということ。消費の形態も「つながり消費」が意識されるようになってきている。承認と接続のツールとしての消費であり、「共感できる」コンテキストが必要なのである。その例として田中眼鏡本舗を紹介し、そこでは眼鏡そのものの質もあるが、それ以上に、店主が眼鏡ついて語る「物語」や、店主そのものの魅力に惹かれて購入する。という。消費の形態は、かつての「背伸び記号消費」と「モノ消費」から「機能消費」と「つながり消費」・「物語消費」(場や行為の消費)へと変容している。そこで、「クラウド」と「シェア」という概念がこの二つの傾向にマッチし、近年普及し始めている。
第三章 「視座にチェックインする」という新たなパラダイム
「フォースクウェア」というアプリを紹介していた。特定の場所に「チェックイン」することによって、その場所の口コミやクーポンなどを得ることができる。フォースクウェアには3つの工夫があり、①みずからはモジュールに徹し、Twitterやフェイスブックなどの巨大プラットフォームに依拠した。②「場所(リアル)」と「情報(バーチャル)」の交差点の設計③交差点にユーザーが接続するため「チェックイン」を持ち込んだ。の3つである。
また「エンゲージメント」とは、広告用語で、企業と消費者の間にきちんとした信頼関係を形成し、その信頼関係の中で物を買ってもらう。マスメディア衰退後の世界で重要な考え方であり、フラットであるがお互いに尊敬する関係の事。であり、「チェックイン」はそのような関係性を作り出す一役を担っている。
それは、日本の古来の古来の考え方の中にもあり、千利休の茶道には、「主格一体」と言う言葉があり、ホストとゲストが協力して共に一体となって何かをつくる。その場で生み出される芸術に共鳴すること(=一座建立)。という意味である。鑑賞者でもあり表現者でもある。良い「客ぶり」というのが求められる、ホストとゲストがよりフラットな関係性の事である。
「ライフログ」とは、個人の行動履歴をもとに消費者の行動予測をすることであり、近年注目されている。ライフログによって「無意識を可視化」することができるが、それを「気持ち悪い」と感じる人もいる反面、そのことによって、「セレンディピティ(偶然を発見すること)」の可能性を広められる。
そこで、その気持ち悪さを払しょくするためのプロセスが、「暗黙ウェブ(知らぬ間に情報を記録される)」から「明示(意思表示を示すことで情報を記録し・提案を受ける)」への転換である。
チェックイン、チェーンイン、検索キーワードなどは、全て「明示」であり、「視点」へのチェックインであると言える。情報という海に杭を差し込み、その周辺にできた渦から情報を拾うイメージである。
しかし、それは同時にタコツボ化(視野が狭くなる)現象を引き起こし、セレンディピティとは相いれないものになりがちである。
そこで、「視点」ではなく「視座」をチェックインする方法が提案できる。「視座」とは、「視点」の物事をみる立ち位置、だけではなく、どのような立ち位置と方角と価値観によってものごのとを見るのか、という意味である。その特徴として、①他者の視座へのチェックインが、視点のズレやノイズを生み、セレンディピティを生む。②フィルタリングのハードルが大幅に下がる。(情報ではなく視座を得ることができる)③プライバシー不安の回避などがあげられる。
第四章 キュレーションの時代
キュレーターとは、本来は「学芸員」という意味であり、作品を選び、それを何らかの方法で他者に見せる場を生み出す行為のことを言う。アウトサイダーアート(精神障碍者や無学な人たちの純粋な創作意欲によってつくられた作品)を例にとって、キュレーターがそこに無防備な他者と向き合うことの畏怖と驚きと感動を見出し、作品展にまで繋がった事例を紹介していた。
これまでのジャーナリズムは一時的な取材が中心であったが、もはや情報の量が多すぎて、一時的な情報であっても、真偽を見分けることが困難となってきている中で、情報の仕分け、情報が持つ意味をわかりやすく提示する作業の価値が高まってきている。
キュレーターがセマンティックボーダー(アウトサイダーとインサイダーの境界)に「ゆらぎ」を生み、アウトサイダーを新たに取り込むことを可能にする。つまり、「つながり」と「情報」が統合されつつある。
第五章 私たちはグローバルな世界とつながっていく
文化がアンビエント化し国を超える現象は、同時に文化の普遍主義を喪失させ、細分化した圏域で文化を閉鎖的にさせてしまう。
70年代の日本は、アメリカの文化帝国主義であり、マスメディアの形成する「アメリカ文化への憧れ」により、全国民が幻想を追いかけた時代であった。
しかし、「ポストグローバル」と言われるようになり、真のグローバルとは、人間の根源的な部分で相通じることができるようになることであり、それは決して一回性を否定し、画一化して巨大化することを意味しない。グローバルの中には多様性が内包されている。
その良い例として、「モンゴル帝国」をとりあげ、プラットホーム形成として必要な要因として、( )内はモンゴル帝国の例①圧倒的な市場支配力(軍事力)②使いやすいインターフェイスを実現(通商システム)③プラットフォームの上でプレイヤーたちに自由に活動させる許容力がある(不干渉主義)であると述べていた。
【感想】
難しかったー。佐々木俊尚さんの本は、ノンフィクションっぽく、具体的に書かれていて、場面とか話がコロコロ変わったり、けど内容は一貫していて、まとめるのが難しかったです。いや、うまくまとめれていない自信があります汗
でも、学んだ事としては、情報社会が「大衆(マス)」から細分化している。ということ。それを川の流れが分かれているのに例えて、その分かれ目それぞれに生物がいるように、そこにターゲットとなりうる客がいる。という「ビオトープ」の例えや、大量の情報の生みの中に「チェックイン」などによって杭を打ち、渦を作って、情報を引き寄せる。などの例えが沢山出てきて、想像力を掻き立てられ、そういう理解の仕方があるのか。と刺激的でした。
そんな中で、「チェックイン」という客側の「積極性」というのが今後も広まっていくのだと思いました。
また、そんな情報社会の「客側の積極性」とか「相互性」が、茶道の神髄である「主格一体」や「一期一会」に通じるものがある、と述べられていたので、それら意味を再度考えさせられました。一期一会というと、「出会い」を大切にし、その人との「つながり」をキープする、というような意味かと捉えていたのですが、たぶんもっと、「一回性」の意味が強くて、その人と「出会っている瞬間」こそを大切にするべきだという意味かなと思うようになりました。それが、間違った意味でのグローバライゼーションという「画一化」に反対する「スローフード」的な立場に当てはまるのだと思いました。
「つながり消費」「物語消費」というのも、説得力があると思い、他の本で読んだ、「have」から「be」の時代、そして「share」の時代と言う言葉を思い出しました。それを言い返ると、「have」から「be」そして「do」(何かを共にする)という風にもいえるな。と思いました。
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