2013年12月27日金曜日

読書マラソン46/100『空気と戦争』 猪瀬直樹

読破っ!!
『空気と戦争』 猪瀬直樹(作家・東京副都知事(当時))
発行:2007年7月 文集新書
難易度:★★★
資料収集度:★★☆☆
理解度:★★★☆☆
個人的評価:★★★

ページ数:192ページ

【本のテーマ】
太平洋戦争という日本の針路決定の陰に、20代、30代の若者たちの戦いがあった。
東京工業大学の学生に向けた講義を再現。「時代に流されずに生きるとは」を説く。
(本書より引用)

【キーワード】
模擬内閣、ABCD包囲陣、人造石油、統計、空気、同調行動、
【目次】
はじめに
第一章 東條英機に怒鳴られた二十六歳の高橋中尉
第二章 三十代の模擬内閣のシミュレーション
第三章 数字が勝手に歩き出す
第四章 霞が関との戦い
おわりに

【概要】
はじめに では、戦前と戦後の連続性について述べていた。
戦前は軍国主義、戦後は平和主義、という把握による区別では、正しい歴史認識とは言えない。戦前から戦後にかけての「歴史の連続性」を感じ取ることが大切である。昭和16年から昭和20年の間が特に戦争の色合いが強かったが、その期間を除いた戦前と戦後を見ると、風俗やライフスタイルは、ほぼそのままつながる。と述べられていた。

第一章では、戦争直前の石油不足の対策から開戦までの流れが書かれていた。
ABCD包囲陣から、石油の輸出を禁止される事が予見できていたので、政府は、石油に代わる代替燃料の研究として、「人造石油」(石炭を高温・高圧で液状にしたもの)の開発を推進していた。
その研究に関わろうとしていた陸軍省の中尉・高橋中尉の話が本人の随筆をもとに述べられていた。政府は研究・開発を推進するものの、具体的な目標も掲げておらず、開発が実用化し普及する前に、ABCD包囲陣により、アメリカからの石油輸出を禁止されてしまった。そのため、インドネシアの油田を略奪する、という案が浮上し、その現状を東條英機陸相に伝えた際には、「泥棒せい、というわけだな」と言われ、「人造石油に投資してきていたのに、切羽詰まった時に役に立てません、なすべきことをおろそかにして困ったからと人に泥棒を勧めに来る。いったい日本の技術者は何をしておるのだ!」と陸相に怒鳴られたエピソードが綴られていた。

第二章では、石油のための「南進」=「開戦」をめぐって、模擬内閣の議論のエピソードが書かれていた。
南進をするか否かの判断を行うために、既存の内閣とは別に、模擬内閣を作った。民間企業からは、日本銀行、日本製鐵、三菱鉱業、日本郵船、産業組合中央金庫、同盟通信からそれぞれ一名ずつ、六名、あとは二十七名の官僚(うち五名は軍人)で構成された内閣であった。そこで議論をした結果は、南進し、油田を略奪しても、インドネシアから石油を運んでくる際に襲撃に合いやられるという「船舶消耗量」を考慮すると、石油を賄いきることはできない。という結論であった。

第三章では、開戦の際に用いられた数字「データ」について述べられていた。
東條陸相は、模擬内閣の結論に対し、「戦争では何が起こるかわから無いし、机上の空論に過ぎない」として、これを引き下げ、「口外しないように」念を押した。
そして、政府は、南進を進めた際の石油の需給バランスの試算表を作成した。
それによると、毎年年間約500万トンの石油需要に対し、17年には南進し、油田を略奪するが、搾油のために初年度はあまり供給は増えないため、前年度輸入した石油を繰り越しにして使い、18年度からは南の油田でとれた石油を使う。という計画であった。
しかし、そこには、「船舶消耗量」が考慮されておらず、その点が考慮されることがないまま、開戦してしまった。
猪瀬氏が戦後、当時中将をしていた鈴木貞一氏にインタビューをした際に、使われた「ムード」という言葉から、山本七平氏の「空気の研究」という著書の内容を思い出したと論述していた。
高橋氏の随筆の中にも、「これならなんとか戦争をやれそうだ、とみんなが納得し合うために数字を並べたようなものだった。」と述べ、実際、石油の需給量の内訳として、重油・ガソリンなどのそれぞれの量まで詰めていなかった。と述べ、後悔の念を述べていた。

第四章では、話を現代に戻し、現代の政治のなかでも、「不確実な数字」による決定がなされている。と指摘していた。
その例として、道路建設の際に重要なデータとして参考にする「交通需要推計」のデータを政府が作成した際、最初のうちは非公開であり、「著作権があるため」と述べていた。しかし、猪瀬氏の指摘により、データを公開するが「変数」の説明が不十分であるため、まだ不確実であった。そこをさらに指摘し、やっと根本的なデータを入手したところ、「免許保有率」が、実際の数値よりも高い「恣意的な」数値が用いられていた。という。そこを指摘してやっと、改善し、もともと15兆~12.6兆円と算出されていたものが、最終的には11.4兆~7.5兆円にまで下げられた。
このような例を挙げた上で、政治家の「腕力」と官僚の作った「統計」で決まってきたものが、正しい「事実」と「数字」で覆すことができる。と述べていた。
そして、このような不合理的な現象が起こる「空気」の正体として、「同調行動」をあげていた。
「アッシュの実験」を引用し、自分がAだと思っていても、Bが正しいと言う人が多ければ、なんとなくその意見に引きずられてAだと言えなくなってしまう。と指摘していた。それが日本特有のものではないと述べたうえで、このような「同調圧力」に屈しないためには、「事実」に基づいて、論理とデータで考えていくことが大切である。と述べていた。

【感想】
最近、世間を騒がせた猪瀬さんが、「空気」に関する本を書いていると知ったので、読んでみました。戦争の頃の時代の開戦の際の議論について詳しく書かれていました。

「データ」は「ある空気による決定」を固めるための道具に使われることがある。と実感しました。
「データがあるから」安心してしまうのではなくて、そのデータに漏れがないのか、懐疑的・論理的な態度を持たない限り、「空気」に流されてしまうのかな。と思いました。
実際に政治に関わっていた人が、「空気」を持ち出しているのが、不思議な感じがしました。

そして、個人的には、猪瀬さんはこんな本も書くし、東京都知事もしてたはずなのに、
最後の終わり方があっけなさすぎるので、実は何か裏があるのでは?!とか思ってます。(特に根拠はありませんが。)
とりあえず、山本七平さんと猪瀬さんの本を読んで、「空気」によって、政治が望まない方向に走っていってしまうことは、とても恐ろしい事であると思うようになりました。
今後、致命的な間違いへと導く「空気」に巻き込まれないためには、自分でいろんな情報を集めないといけないな。と思いました。

【理解・評価】
第一、第二章は、高橋さんの随筆をもとに、小説みたいに書いてあって、読みやすかったです。
しかし、第四章の現代の話が少なかったので、(政治家やし、書きにくかったのかもしれないけど)
もっと政治の裏側を知りたいな。と物足りなく思いました。

2013年12月9日月曜日

读书马拉松45/100『中国人与日本人之面子谈』 姜丽萍

读破了!!
中国人与日本人之面子谈』 姜丽萍(北京语言大学

発行:2010年 民俗拾零

难易度:★★★☆☆
资料收集度:★☆☆☆☆

理解度:★★★☆☆
个人评价:★★★★☆

页数:4







【这本书的主题】(この本のテーマ)
比较日本人的面子和中国人的面子,探索相同之处和不同的差异。
日本人の面子と中国人の面子を比較して、その同じところと違うところを考察する。
 

【关键词】(キーワード)
 面子,面子尊严,人格尊严,耻辱感,名誉,西方人的双赢,东方人的和谐,
 
【目次】
《面子尊严和人格尊严》
《中日面子比较》
《中日面子共同点,不同点》
《面子的影响》
 
<面子尊厳と人格尊厳>
<日中面子比較>
<日中面子の共通点と相違点>
<面子の影響>
 
摘要】
中国人很注重自己的面子,这一点所周知的。本论文比较中日面子的概念探索相同之处和不同的差异。
爱面子就是不重事实,只重形式的做戏态度。面子是一种角色期待,特别是自我的角色期待的满足,能够以某种方式满足自我的角色期待,就是有面子。
日语里面也有“面子”这个词,不过中国的面子比日语中的这些词包含更强烈的意思。 
 
《面子尊严和人格尊严》
面子是关于人的尊严的词语,不过“面子”尊严和“人格”尊严是有很大区别的。
面子尊严之追求外在的表面效果,缺乏内在的人格力量为依据,并更多地是建立在“自我尊重”的基础上。不过,人格尊严讲究主观效果和客观品质的一致性,主要建立在“他人尊重”。
中国人的大多数的面子是外在面子,即具有比较高的外在尊严,比较低的内在尊严。日本人则表现出比较低的外在尊严。比如说,日本人常常把“对不起”挂在嘴上,但中国人则犯错了也不肯轻易认错。破产企业的记者会议上,日本的经营者可能会当众痛哭流涕,但对于中国人来说,
那绝对是过于丢面子的行为。中国人不愿意在众人面前承认自己的错误,而有时候转嫁责任。
 
明恩薄说;中国人有一种激烈的戏剧本能,也就是说,上台便有了面子,而下台了便失了面子。
易中天也指从人生如戏的角度来分析中国人的面子。
中国人的面子指个体再其社会交往圈内所展示的形象类型及其程度,这种类型及其程度受儒家道德和日常礼仪标准的检验。面子的背后有礼的因素。
面子的因素可以分几种类。太好面子就变成了一种形式和仪式。然后,面子还规定着上下尊卑的关系和行为方式。还有人认为这是受虚荣心的支使。
 
《中日面子比较》 
但是日本人的面子是紧紧与耻辱感联系在一起的。而且那个耻的范围是相当广泛的。因为日本人对自己的名誉是相当敏感并竭力维护的。因此在日本,不能过于直接地否定别人的意见,不能当面过多地说别人专业上的失误,这是一般的礼节,也是一种明智。就是说,要注意自己的面子也要注意别人的面子。
日本人也受到儒家礼教影响。重“礼”的背后隐藏的是“耻辱感”,中国人在这方面的耻感则要弱得多。
 
《中日面子共同点,不同点》
由此,中国人讲究面子来自于视人生如戏的生活态度及对“礼”的关注。日本人讲面子则来自于其耻感文化和名誉的关注。
共同点之一在于,两个民族都深受中国儒家重视礼教的思想影响,在社会生活中存在着各种各样的遵守的行为规范。
共同点二——两个民族都有很强的集体意识,因为面子是给同一集团中的其他人看的,如果不需要面对别人,面子就失去了意义。
在中国,有面子就是得到众人的肯定。中国的成功似乎存在于旁人的评价之中。
而对于日本社会,任何人都十分注意社会对自己行动的评价。因此日本在做出行为判断时,常常会过分在意别人的眼光和评论而磨灭了自我。在这一点上,中国人比日本人稍微更强调自我一点。
不过总的说来,中国人与日本人同样缺乏心理独立性,缺乏独立的价值操守。
另外在这个问题上,“集体”这词语的心中范围日本人的比中国人的广义得多。所以在日本人人都是彬彬有礼,行动小心翼翼,惟恐给别人添什么麻烦。即使好朋友之间,也是很有礼貌。
不过,在中国,似乎人们在自己生活的小圈子里,要更加讲究面子,在公共场所,面子就不是那么重要的事了。所以中国人的面子只是给熟人看的,在这个圈子里面,面子价值连城,可是到了陌生的地方,面子就不怎么重要。
还有,中国人觉得有面子的事情的范围比日本人的大;日本人觉得没面子的事的范围比中国人大,可能这是由于日本人更关注耻辱。另外,中国人的面子与私人财富的关系比日本人更密切。
这可能与中日两国不同的社会收入情况有关。日本人在二战后,整个社会一切平等同一,生活水平比较高,收入差距是不大的。相比较之下,中国的经济还相对落后,人们的购买能力也不太高。大家都渴望拥有更好的生活。经济好一点儿的人相应地便会产生优越感,也就是会觉得有面子。
 
《面子的影响》
积极的方面看,对于个人,面子可以成为努力的原动力和自我约束、自我激励的内在机制。在人际关系当中,由于交往双方对于对方面子的维护,人与人之间更能互相礼让、互相尊重。
在这一点上,中国人和日本人是相同的。
东方人与西方人做一下比较。西方人崇尚竞争,追求“双赢”的关系。而东方人讲究和气,其实在商场上也相信和和气气地赚钱,信守成功的秘诀就是互不失“面子”以“和为贵”为原则。
在这一点上,日本人比中国人更加做到了极致。中国人从小接受的就是要表里如一。所以如果自己感到不满意的话,比较直接的说出来。但是日本人,即使觉得非常不满意,也决不会当面提出反对意见,而是表面上先表示赞同,以后再通过比较柔和的方式解决问题。在这一点上,外国人可能会觉得日本人很虚伪,但在他们社会团体的内部,这是约定俗成的一种礼仪规范。一定程度上这确实也维持了和谐的人际关系和气氛。
 
过分重面子也有负面。上述的方式容易使外国人误会他们真正要表达的意思,会使外国人气愤和不解,这是一个不利于双方互相理解的消极因素。
松本一男指出;中国人经常会为了维护面子而坚持错误,也会不惜牺牲实际利益来换取形式上的面子。对中国人来说,不管出了什么问题,保全面子是最重要的,而不是找出问题的原因和对策。
过分在乎“面子”已经会变得滞重,不和谐,甚至会阻碍我们前进的脚步,放下面子,更关注里子,对中国和每个中国人来说都是一个很重要的问题。
 
概要】
中国人は自分の面子をとても重要視する、というのは広く知られていることである。
この論文では、日中の面子の概念を比較し、似ているところと違うところを考察する。
面子を重視することとは、事実を重視せず、形式を重んじる芝居的態度である。
面子とは一種の役割期待であり、特に自分の役割期待に対する期待であり、何らかの方法で自分の役割期待を満足させることができれば、面子がある。ということである。
日本語の中にも「面子」という言葉はあるが、中国の面子のほうが、日本のものよりもより深い意味を持っている。
 
《面子尊厳と人格尊厳》
面子は人間の尊厳にかかわる言葉であるが、「面子尊厳」と「人格尊厳」には大きな区別がある。
面子尊厳は、外側のうわべの効果であり、内在する人格の力量や根拠にかけており、「自我尊重」の上に成り立っている。それに対し、人格村長は主観的効果と客観的品質が一致しており、「他人尊重」の上に成り立っている。中国人の多くの人の面子は、外在の面子であり、高いうわべの尊厳と、低い内在的尊厳である。日本人は、うわべの尊厳も比較的あまりあらわに表現しない。たとえば、日本人はすぐに「すみません」という言葉を言うが、中国人は間違いを犯しても、簡単には自分が間違えたとは認めない。破産した企業の記者会見で、日本の経営者は人々の前で涙を流しつらそうな表情をするが、中国人からすると、それは絶対「面子を失う」行為である。中国人は大勢の人の前で自分の間違いを認めたがらず、他人に責任転嫁をすることすらある。
 
明恩薄は、中国人は強い芝居本能を持っており、舞台に上がれば「面子」があり、舞台から降りれば面子がなくなる。易中天も、人生を劇に例えて面子を分析した。
中国人の面子は、個人がその社会の交流グループ内で他人に見せるイメージのタイプおよび程度であり、そのタイプや程度は儒教道徳と日常礼儀の基準によって評価される。面子の背景には「礼」の要素がある。
面子の要素は何種類かに分けられる。面子を重んじすぎるとそれは一種の形式と儀式になってしまう。また、面子は上下の関係や行為の方法を規定する。ある人はこれを虚栄心によるものだという。
 
《日中の面子比較》
日本人の面子は「恥の感覚」と強い関係がある。その「恥」の範囲はとても広い。日本人は自分の名用に対して敏感であり、努力してそれを維持しようとするため、日本では、直接的に他人の意見を否定しすぎることはできない。その人の専門分野においての間違いを指摘しすぎてはいけない。それは一般的な礼節であり、一種のかしこさでもある。自分の面子に注意すると同時に、他人の面子にも注意しなくてはならない。日本人も儒教の影響を受けているが、礼を重んじる背景には、「恥」の文化が存在しており、中国人は、その方面の「恥」の感覚が日本人よりもずっと弱い。
 
《日中面子の共通点,相違点》
このことにより、中国人が面子を語るときは、人生を芝居に例えた生活態度と「礼」に関心を払う。日本人が面子を語るときには、恥の文化と名誉に関心を払う。
共通点の一つ目として、どちらの民族も儒教の礼を重んじる思想の影響を深く受けていることであり、社会生活の中のさまざまな行動規範のなかに存在している。
共通点の二つ目として、どちらの民族も強い集団意識がある。という点である。面子とは一つのグループの中でほかの人に見せるものであり、他人の存在がなければ、面子の意義は失われてしまう。
中国では、面子があるということは、周囲の肯定を得るということであり、中国の成功は、ほとんど周りの人の評価の中にある。しかし、日本社会においては、どのような人であれ、社会が自分に対する評価に対して十分に注意している。なので、日本人が行為の判断を行うとき、よくほかの人の目を気にしすぎてしまい、精神を消耗してしまう。この点において、中国人は日本人よりも少し自我的であるといえる。しかし、まとめると、中国人と日本人は同様に心理的な独立性に欠けており、独立した価値基準に欠けている。
この問題についてもう一つ、「集団」という言葉の心の中の範囲が日本人は中国人のそれよりも比較的に広い。だから日本人は多くの人が礼儀正しく、心遣いが行き届き、たとえ仲の良い友達との間であっても、礼儀正しく、他人に迷惑をかけることをいやがるのである。
しかし、中国では、人々は自分の生活の範囲の中で、より面子を語り、公共の場所では面子はそんなに重要ではなくなる。だから、中国人の面子は知っている人の間だけであらわれ、その範囲の中では面子はとても価値があるものだが、知らないところへ行くと、面子はそんなに大事ではなくなる。
そして、中国人は「面子がある」ことの範囲が日本人よりも広い。日本人は「面子がない」事の範囲が中国人よりも広い。これはきっと、日本人がより「恥」を重んじるからである。ほかにも、中国人の面子は個人の財産との関係が日本人よりも緊密である。これは日中両国の異なる社会の収入状況が関係していると考えられる。日本人は第二次世界大戦後、社会は平等に向かい、生活水準は比較的高く、収入の差がそんなに大きくなかった。それに比べて、中国の経済はまだ後れを取っており、人々の購買能力もそんなに高くない。人々はみな、より良い生活を求めている。
経済的に余裕がある人は、優越感を感じ、それがつまり「面子がある」ということである。
 
《面子の影響》
良い面としては、個人において、面子は努力する原動力となり、自分との約束となり、自分を励ます内在するシステムとなる。人間関係においては、お互いの面子を守ろうとして、お互いに譲り合い、お互いを尊重することができる。この点においては、中国人も日本人も似ている。
東洋人と西洋人を比較してみると、西洋人は、競争主義であり、ウィンウィンな関係を求める。それに対して東洋人は、和を尊重し、ビジネスにおいてでも、調和を保ちながらお金を稼ぐ。
信用を得る秘訣として、お互いの面子を失わずに、和をもって貴しとなす。を原則とすることである。この点において、日本人は中国人よりもより極地に達している。中国人は小さいころから「表面と中身を一致させること」を受け入れてきた。だから、自分が満足しない場合にも、直接的にそれをいうことが多い。しかし、日本人の場合は、自分が全然満足できていなくても、その場で反対意見を述べることはせずに、表面上ではまず賛成し、あとから角が立たない方法で問題を解決する。この点において、外国人は日本人がうそつきであると感じることがある。しかし、集団内においてはそれが暗黙の礼儀であり、規範であり、ある一定の程度で人間関係の調和や雰囲気を保つことに役立っているのは確かなことである。
 
面子を重んじすぎることでマイナスの作用もある。上に述べたようなやり方には、外国人に誤解を与えやすく、本当に伝えたいことが伝わりにくく、外国人の気分を害し、理解できず、お互いの相互理解を妨げる消極的な要素がある。
 これについて松本一男は、中国人は面子を守るために誤りに固執し、実際の利益の犠牲を引き換えにして、表面上の面子を得る。中国人からすると、どのような問題であれ、面子を保つことが一番大事なのであり、問題の原因や対策は二の次である。
このような「面子」の過度の意識は不活性的であり、調和に悪影響を与え、さらには私たちの進歩の障害になってしまうので、面子にこだわらず、中身によりこだわることが、中国とどの中国人にとってもとても大切な課題である。
 
【感想】
「面子」をテーマに書かれた論文だった!しかも、日本の面子観と比較していたので、すごく自分の研究とぴったりの論文でした。
面子には、自分をよりよく見せようとする「面子尊厳」と、自分が持っている能力を最大限に生かしたい、また他人が持っている能力を最大限に認めたい。という「人格尊厳」があると思う。
「中身が伴っている面子」と、「中身が伴っていない面子」の二種類があり、それがはっきりと分けられず、混在している。という風にとらえるようになりました。
「中身が伴わない面子」を重んじるとは、「虚栄心、見栄」として捉えられ、最終的には自分にも多大な物的・精神的負担を担わせてくる。「中身が伴う面子」を重んじるとは、日本語の「気」とも重なる部分があり、他者への配慮であり、他社の存在を認め、受け入れている。ということの意思表示である。この面子を自分に対しても、他者に対してもうまく使いこなせる人は、人間関係を潤滑に行うことができ、人脈も広げられることができる。
 
どちらにせよ、中国人の「面子文化」の根源には、より良い生活をしたい。というハングリー精神があるのであって、「中身の伴わない面子」も、努力によって「中身の伴う面子」に変えることができ、多くの人はそれをするつもりで現段階ではできないこともできると言い、一部の人は本当に実現し、一部の人はできずに、「面子を失う」のだと思いました。
そこに見えてくるのは、現代日本に失われつつある、上昇志向なのだと思います。
 
そして、日本において経済水準が高く、「一億総中流社会」といわれたほど平等指向が強かったから、財力による「面子格差」はなかったのですが、今「格差社会」が叫ばれ、今後もその差が狭まる可能性が少ない状態が続けば、また少し意識が少し変わってくるのではないでしょうか。
 
こうやって考えると、「面子文化」は、「実力主義」的な一面(その人の持つ偽りのない能力や財力を重視する)を持ちつつ、その人が生まれながらにして持つ親戚関係やそれによる財力、作り上げてきた人脈なども、その「面子」の価値を構成する一部である、という点で、完全な「実力主義」とはまた少し違う特徴を持つ関係であると思いました。
しかし、「空気」がその人の「キャラ」を形成しがちである日本の文化に比べると、グループの中でグループの構成員に対してある「キャラ」を共同概念として抱く、というよりも、個人個人が他者を査定・評価する、という要素が強いように思いました。そして、日本の「キャラ」が固定的・普遍的傾向が強いのに対して、中国の自我意識は可変的、とくに上昇指向的であると言えます。
 
そしてなにより思うことは、これらの面子の概念や捉え方が時代背景・経済状況によって大きく変わるという点です。きっと、僕が卒論を完成させたとしても、そこから10年、20年たてば、世界は大きく変わり、日本の「空気」に対するとらえ方も、中国の「面子」に対するとらえ方も、付き合い方も、少しずつ変わってくるのではないのかと思いました。

卒論に向けて、頭の中の整理。

博報堂の若者研究所の原田さんの著書によると、
SNSによって作られた「新村社会」の住民が、空気からの干渉(KYと言われたり他者から批判されること)を逃れるためには、「自分のキャラを立てる」ことだ。と言っていたのが、ずっと頭に残っています。「空気にそぐわない」行動をしても、「キャラ」が立っていれば(まじめキャラとか、おバカキャラとか)、許されやすい。ということです。

「空気・気・キャラ」を日本文化のキーワードとして研究を進めてきましたが、
その三つを図式化するとしたら、個人の心の真ん中に「気」があって、その周りに「キャラ」を身にまとって、そして、外の世界にあるのが「空気」という図をイメージするようになりました。
本音である「気」は「キャラ」で覆い隠して、簡単には他人には見せません。「キャラ」の鎧が薄いと、「気」は「空気」からの干渉や影響を受けやすく、「キャラ」の鎧が厚いと、空気の干渉や影響は受けにくいけど、鎧が重くなって、「気」にストレスがかかる。
「空気」は複数の人間の「キャラ」の鎧の隙間からにじみ出る「気」の集合体であって、それが全体の総意として、絶対的権力を持っている。
ここまでだと日本論の「本音と建前、空気」の説明っぽいけど、ここで大事なことは、「キャラ」は自分だけで簡単に形成するものではなく、「空気」によって、形成されてゆくものであり、周囲から承認されて初めて鎧となる。という点である。つまり、本人ができることは、その「空気が形成したキャラ」を積極的に受け入れ、鎧を手にし、人によってはぶ厚くしていくか、もしくは、「空気が形成したキャラ」を拒否し、「キャラ」の鎧を被らず、自分だけで形成した「キャラ」を押し通すことにより、他者からの違和感や批判を覚悟するか。のどちらかなのである。
そして、そこで大事になってくるのが「柔(やわら)」の精神である。
柔の精神とは、相手の動きのエネルギーを利用して、自分の思うように相手をコントロールする。という柔道の概念である。「キャラを形成しようとする空気」のエネルギーに、ぶつからないように、その流れをうまくコントロールして、自分の望む「キャラ」へと導き、空気に自分の望む「キャラ」を形成させ、定着させる。そのような能力が、日本社会において団体と調和しながらも自分らしく生きるために必要な能力であると思うようになりました。

具体的に言うと、日本式「リーダーシップ」とは、例えば部下が間違った意見や提案をした時に、真っ向から批判が出来る人ではなく、相手の「気」に配慮し、何を言いたかったのか、言葉の深層を汲み取り、相手の的外れな提案や意見に対しても、真っ向から否定するのではなく、相手の意見を出したというエネルギーを、うまく利用しながら、相手の視点を「正しい」方向へずらし、正しい意見へと導くことができる人のことである。
もちろん、白黒・善悪をはっきりさせる欧米式リーダーシップも、そのやり方に適応すれば効率的に進めることはできるが、日本人の価値観的、もしくは日本語の性質のその特性を考慮すれば、
日本式「柔的」リーダーシップの方が、心理的負担も少なく、効率的になると考えます。

「空気・気・キャラ」ともに、目には見えない概念であり、しかしその概念があたかも存在しているかのように、実際の心理に影響を与える、もしくは相互作用がある。
それを山本七平氏は「臨在感的把握」と命名しました。
同じように、中国文化における「面子・関係・人情」も、どれも目に見えない概念でありながら、
人間の行動・心理に大きな影響を与える存在として、「臨在感的把握」の対象である。ということができると考えます。
日中どちらのキーワードのどれもが、人間関係において効果を発揮し、また、自己イメージと自己尊厳、他者イメージと他者尊厳に関わる言葉という点で共通しており、概念的にも共通している部分がある。

2013年12月5日木曜日

读书马拉松44/100『当代中国人际关系的文化传承』 王晓霞

读破了!!
当代中国人际关系的文化传承』 王晓霞(中共天津市委党校 哲学研究所
発行:2000年 南开学报

难易度:★★★
资料收集度:★☆☆☆☆
理解度:★★★
个人评价:★★☆☆
页数:8页

【这本书的主题】(この本のテーマ)
通过传统儒家文化和通过跟西方文化的比较,辨别中国文化的积极作用和负面作用。

【关键词】(キーワード)
人际关系,文化,传成,人情、贴合剂,面子,调节器,人己关系,群我关系,
整体主义,集体主义,

 【目次】
 
摘要
一,中国人际关系以重人伦为本
二,“人情”是维护中国人际关系的主要纽带
三,中国人际关系是“亲缘”关系的扩展
四,“面子”调节着中国人际关系的方向和程度
五,重"信任"与"和谐"是中国人际关系建立的心理起点
六,整体主义作为处理人己、群我关系的原则仍在潜在地发挥作用
 
一,中国の人間関係は人倫を基本とする
二,「人情」は中国の人間関係を維持するための絆である
三,中国の人間関係は「血縁」関係を広めたものである
四,「面子」は中国の人間関係の方向と程度を調節する
五,「信任」と「和」に重きに置くのは中国の人間関係が成立するスタート地点
六,全体主義は、自他、集団・自己の関係を処理する原則として、潜在的に効果を発揮している
 
【摘要】

一,中国人际关系以重人伦为本
中国文化是以儒家道德哲学为核心的,也就是说,正确的道德品质比细致的科学知识更重要。
尽管中国文化随着社会的发展发生了一些变化,甚至被淘汰,但其中许多内容至今仍然存续于中国社会中,并对当代中国人的人际关系产生重要的影响。
儒家强调人与人之间的友爱、恭敬、谦让、温和、互助与和谐,提倡孝悌、仁爱、通过爱人而达到社会和谐统一,避免对立与对坑。儒家认为人伦是中国社会的共同准则。人不能脱离社会而独自存在,以伦理为人际关系的通则,必然会导致人际关系的道德化和等级化。中国人家庭关系上最重视的是“孝亲、慈幼”。“孝亲”即敬养父母、是子女应尽的义务、“慈幼”是当父母的对子女应尽教养之责。中国文化里面这种服从关系的存在是很深刻的存在。在中国家长有绝对的权威。而西方却只有上帝才具有至高无上的权力。这样的血缘关系有利也有弊。积极意义就是培育良好的社会气氛,消极意义是保守倾向和人与人之间的不对等交往即等级化现象。
 
二,“人情”是维护中国人际关系的主要纽带
中国人处理问题的时候考虑最多的是感情因素,而不是理性和科学。“人情”是人际交往的纽带或者“贴合剂”,是一种资源,是需要回报的。人情只能是一种与实际生活紧密相连,并贯穿于人们社会交往中的一种社会情感和精神共鸣。人情也可以“物化”交换。随着社会的功利化,中国人更重视人情,而认为人情关系的能力高的人,就社会活动能量和人际交往水平也比较高。
中国人的人情跟亲缘有关系。这必须导致对圈内人热情伴随着对圈外人的冷漠和社会各个层面上的低效率。人情就是亲情与感情交织在一起的,并不是完全没有感情。当做出回报的时候,要大于其所接受的“人情”,这样一来,就觉得自己不欠对方什么。这种“不欠”和“回报”的心理,是中国人和西方人不一样的地方。
中国人的人情是一种情感,又是一种可以交换的资源,是中国人的人际互动的纽带。
一方面,由于人情,可以加强人们彼此的亲近感和认同感。但另一方面也使人们自愿或不自愿拥有一些负担。有可能人情变成人际交往的手段或工具,又有可能人情让公共生活和职业活动“私人化”、“情感化”就会造成腐败和社会不正之风泛滥,破坏社会秩序。
 
三,中国人际关系是“亲缘”关系的扩展
古代中国人的人际关系是以亲缘为基础的。由亲缘关系开始,到后来结拜关系等“拟血”、“拟亲缘”的关系也随之出现了。费孝通指出;“中国社会关系是按照亲疏远近的差序原则来构建的。社会范围是一根根私人纽带联系所构成的网络。”也就是说,越是远离亲缘的核心,就越容易被人们排斥。而且中国人社会利益上“公”“私”部分,在心理上“人”“己”难离,互相依赖关系。所以,中国人际关系的等级差别是其重要特色之一。在亲缘关系中,往往归结为某人的“恩荫”和“庇护”等形成依附关系,这种关系在社会中泛化和极端化,从而就会影响社会秩序,污染了社会风气。
 
四,“面子”调节着中国人际关系的方向和程度
 构成中国人际关系的一个重要因子是“面子”。它具有地调整着中国社会人际关系的方向和程度,成为中国人际关系的“调节器”。人际互动双方爱“面子”的程度、给不给面子或面子是否给足,往往是人际关系和谐与否的重要条件,它直接关系到人际关系发展的方向及程度如何,影响人际互动双方关系亲密的程度。面子的特性之一是,“他人赋予”的特性,是中国人的“自我意识”和“自我观”,是自尊的表现。罗素分析;外国人觉得“要面子”觉得很可笑,殊不知只有这样才能在社会上形成互相尊敬的风气。
所以,中国人在人际交往中总是以对方给不给自己“面子”和给自己的“面子”多少来判断对方对自己的接纳程度,并不是对彼此的关系进行认知和评价。同时促进这种关系,一方面为自己的自尊,另一方面也为给别人“面子”,就带上了“面子”这一面具进行交往。
这样的面子,从对人的尊重来看,它有利于人际交往的和谐进行,维护关系。但爱面子的心理影响中国人际关系的“理性化”的负面作用。从个体层面来看,它容易引发人们的虚荣心,追求表面上的“体面”而容易造成心理失衡。从社会层面来看,它容易导致巴私人之间的“面子”关系扩大至公对公的交往,使公事“私人化”。虽然个人会满足自己的自尊心,显示并加固了自己的社会地位,组织不能按科学的程序运转,影响了整个社会风气。
 
五,重"信任"与"和谐"是中国人际关系建立的心理起点
中国儒家文化也重视“信任”和“和谐”。由于几年来人们世世代代共同生活在同一块土地上,如果失信或者骗人的话,就很容易被传播,受到孤立。所以人们普通认为欺骗是得不偿失。这种想法,跟西洋人提倡的个人至上、金钱第一、自我核心的文化相反。但儒家文化促使人与人之间的团结互助。不过它也会强化“平等主义”,而为了求得人际关系的和睦,处处忍让屈从,以致不讲公平正义,压抑了人的个性。
 
六,整体主义作为处理人己、群我关系的原则仍在潜在地发挥作用
儒家文化还注重将“宗亲关系”推及整个社会,讲究个人的奉献和牺牲精神,重公抑私,倡导大一统的整体主义。中国的文化价值目标是以群体为第一的。而且,那些群体的基础是家庭。以至有人用“家我’来形容中国人不同于西方人的“自我”。儒家还强调个体的发展必须以群体中他人的共同发展为前提,使中国人在心理上的“人己”难分。整体主义是双刃剑。一方面促进人际合作,改善人际关系,减少人际冲突。使群体有较强的凝聚力,从而有助于群体与社会的和谐发展。但另一方面,整体主义的导向不注重个人权利,不重视个人的自由和民主,因而容易导致压抑人的个性,特别是助长专制统治权利的膨胀和腐败行为的滋生。
因此,社会主义新中国建立后在处理人己和群我关系上提倡“集体主义”。它也强调集体的利益,但并不否定个体的差异和独立性。集体的目标是为了“人”,而不是为了整体。这个主义是中国传统的整体主义和个人主义扬弃的结果。实际上中国现实社会生活的许多领域还发挥着整体主义的潜在作用。
 
每个文化都有积极作用和负面作用,既不能全盘否定,也不能一概肯定。中国人际关系的健康发展应该建立在对文化传统的继承和改造的基础上。
 
【概要】
 
一,中国の人間関係は人倫を基本とする
中国文化は儒教の道徳哲学を核心としている。つまり、正しい道徳は、細かな科学的知識よりもさらに重要とされる。どれだけ中国文化が社会の発展に伴い変化し、淘汰されたとしても、多くの部分は中国社会に残っていり、現代の中国の人間関係に大きな影響を与えている。
儒教は人と人の間の友爱、恭敬、謙譲、温和、互助と和を強調し、孝悌、仁爱を提唱し、人を愛することで、対立や対抗を避け、社会の和や統一にたどり着くことを提唱した。
儒教は人倫を中国社会の共同の規範と考えた。人間は社会から独立して存在することができず、人倫を人間関係のルールとしたことで、人間関係が道徳化され、等級化されるようになった。
中国人の家庭関係では、「親孝行、子供への慈しみ」がもっとも重視され、子は親を敬い、親は子を慈しむ責任があると述べた。中国文化の中には、このような服従関係がとても深くまで存在している。家庭においては家長が絶対的権威を持っている。西洋では神のみが絶対的権威を持っているのと対比的である。このような親縁関係は良いところもあり、悪いところもある。良いところは、良い社会の雰囲気を作ることができる点で、悪い点は、保守傾向と人間関係に不対等と階級化の減少を引き起こしてしまう点である。
 
二,「人情」は中国の人間関係を維持するための絆である
中国人が問題を処理する際、一番よく考えるのは、理性や科学ではなく、感情の要素である。人情は人間関係における「絆」であり、「接着剤」であり、ある種の資源であり、恩返しを必要とするものである。人情は実際の生活と緊密に結びついており、社会的人間関係を貫く社会の感情と精神の共鳴である。また人情は「物化」することができる。社会の功利化に伴い、中国人はより人情を重視するようになり、人情関係の能力が高い人は、すなわち社会活動の能力と人間関係のレベルも高いと思われる。中国人の人情は「親縁」と関係がある。しかし、それは「うち」の人には優しくするが、「そと」になるにつれ冷たく接し、社会全体としての効率を下げてしまうことにつながる。人情は、親愛と、感情が入り混じったものであり、感情が全くないのではない。恩返しをするときには、相手がくれた「人情」以上のものを返さないといけない、そうしてやっと相手に対して何の借りがない状態になる。このような「貸し借り」と「恩返し」の心理は、中国人と西洋人との違うところである。
中国人の人情は感情の一種であり、また交換できる資源でもある、それは人間関係における絆である。一方で人情によって、お互いの親密感や共感を強められるが、その反面、自分がしたくないことまで負担しなければならなくなることがある。また、人情は人間関係の手段や道具になってしまうこともあり、人情が公共の生活や職業を「私物化」してしまう可能性もあり、社会の腐敗や不正を招き、社会秩序を壊してしまうことにもつながる。

三,中国の人間関係は「血縁」関係を広めたものである
古代中国人の人間関係は親縁を基礎としており。親縁から始まり、擬似「血縁」関係、擬似兄弟関係を結ぶなどの関係も現れてきた。费孝通が言うには、中国社会の関係は親密さの差の原則によってつくられる。社会の範囲とは、一人の人間が絆で連絡し作ったネットワークである。」と述べ、親しさが遠ければ遠いほど、より排除されやすく、また中国人の社会では利益上の「公」「私」を、心理上では「他人」と「自分」で分けにくく、相互依存関係がある。と述べていた。なので、中国人の人間関係の等級差別はその特色の一つである。親縁関係の中で、往々にして最終的には誰かの「甘え」や「比護」などの依存関係をつくり、このような関係が社会の中に広まり、極端化すれば、社会秩序に影響を与え、社会の雰囲気を悪くすると述べていた。
 
四,「面子」は中国の人間関係の方向と程度を調節する
中国人の人間関係の一つの重要な因子として「面子」がある。それは中国社会の人間関係の方向と程度を調節する、人間関係の「調節器」である。お互いが「面子」を大切にする程度、「面子」をくれるかくれないか、十分にくれるか、それによって人間関係が調和的であるかどうかを判断する。
面子は人間関係の発展の方向性や程度に直接的に影響し、人間関係の親密度の程度に影響を与える。面子の特性の一つとして、「他人が与える」という特性があり、中国人の「自我意識」と「自我観」であり、自尊の表現である。罗素の分析によると、外国人は「面子がいる」ということがとてもおかしく感じるが、意外にもそれがあってこそ、社会にお互いを尊重する調和が生まれているのである。だから、中国人は人間関係の中で、お互いの関係性ではなく、相手が自分に「面子」をくれるかくれないか、どれだけの「面子」をくれるかによって、相手が自分をどれくらい受け入ているか判断し、認知や判断を行う。このような関係を促進すると同時に、一方では自分の自尊心のために、もう一方では相手に「面子」をあげるために、「面子」を仮面として交流を行っている。
このような面子は、個人の尊重から見ると、人間関係に調和をもたらし、関係を維持できる。しかし、面子を大切にしすぎると、人間関係の「理性化」に悪影響を与える。個人レベルで考えると、人々の心に虚栄心を引き起こしやすくなり、表面上の「体裁」を追い求め、心理的バランスを崩しやすくなる。社会レベルで考えると、個人的な「面子」関係を公的な場にまで引き延ばすことにより、公的なものを「私物化」してしまい、個人の自尊心は満足させされ、自分の社会的地位を示すことができるが、組織は科学に基づいた判断ができなくなり、社会に悪影響を与える。
 
五,「信任」と「和」に重きに置くのは中国の人間関係が成立するスタート地点
中国の儒教文化は「信任」と「調和」も重視している。何千年も前から、人々は一つの場所で共同生活をしていたため、もしも信頼を失ったり、人をだますと、簡単にうわさが広まり孤立してしまう。だから、人々は一般的に人を騙すのは割に合わないと考えていた。このような考え方は、西洋の提唱する個人主義、金銭第一主義、個人主義の文化と相反する。しかし儒教文化は人と人の間に団結や互助を与える。しかし、「平等主義」を高める効果もあり、人間関係の和を求めて、ガンマンしたり、公平や正義でなくなったり、個性を抑制することにもなる。
 
六,全体主義は、自他、集団・自己の関係を処理する原則として、潜在的に効果を発揮している
儒教文化は、「宗親関係」を社会全体にまで広げることを重視しており、個人の奉献と犠牲の精神、個人を抑えて公を重んじ、すべてを統一する全体主義を重んじていた。
中国の文化的価値の目標は団体を第一にすることであった。そして、その団体の基礎は家庭である。そのため、中国人は「家我」という言葉で形容され、西洋人は「自我」という言葉で自己を表現される。また、儒教は個人の発展には団体の他人共同の発展が前提となっているので、中国人は心理の上で自分と他人を分けにくい。全体主義は諸刃の剣である。一方では、人間関係を促進し、人間関係を改善し、衝突を減らすことができ、団体は強い結束力を持ち、団体と社会に調和と発展をもたらすことができる。しかし、その反面、全体主義は個人の権利や個人の自由や民主を重視しないことがあり、個性を抑圧されることになりやすい。特に専制政治などの権利の膨張や腐敗などの行為につながりやすい。
このことにより、社会主義の新中国が県立されてから自分と団体の関係を処理する際に「集体主義」が提唱されるようになった。集体主義も集団の利益を強調しているが、決して個人の差異や独立を否定しない。集団の目的を「人」のためとし、全体のためとしない。この主義は中国の伝統的な全体主義と個人主義の止揚の結果である。実際には中国の現実社会の生活においてはまだ多くの場面で全体主義の潜在的な効果が発揮されている。
 
どの文化も良い面と悪い面があり、すべてを否定することもできないし、一概に良いということもできない。中国の人間関係の健全な発展は、伝統的な文化の継承と改造の上に成り立つのである。
 
【感想】
長かった!!!!!!
しかし、面子と人情についてかなり深くまで論じられていました。
儒教文化についても深く書かれており、家族関係を基礎とした人間関係であることが書かれていました。こういう文化比較って、文章としては理解できても、実際に感覚としては理解しにくいです。
けれど、アンケート分析の際には、たくさん参考にしようと思います。
全体主義と集体主義の違いについて述べられていて、
個人を重視しない全体主義をより進化させたものとして集体主義というのが語られていました。
理想としか思えないけど、社会主義国家である中国でも、こんな考え方があるんだ、と思いました。

読書マラソン43/100『近頃の若者はなぜダメなのか』 原田曜平

読破っ!!
『近頃の若者はなぜダメなのか~携帯世代と「新村社会」~』 原田曜平 
博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダー

発行:2010年1月 光文社新書
難易度:★☆☆☆☆
資料収集度:★★

解度:★★★
個人的評価:★★
ページ数:262ページ



【本のテーマ】

最近の若者はダメになったのか?「ケータイ・ネイティブ」である若者の人間関係はどう変わったのか、全国津々浦々の若者約1000人との個人対話を通して明らかになった、世代論を超えた「時代論」。


【キーワード】
コミュニケーション、空気を読む、キャラ、新村社会、ケータイネイティブ世代、
ネットワーク格差社会、既視感

【目次】
はじめに 若者はなぜ過剰に空気を読むようになったのか?
第一章 ”読空術”を駆使する若者たち――KY復活現象の謎
第二章 知り合い増えすぎ現象――”新村社会”の誕生
第三章 村八分にならないためのルール――新村社会の掟と罰
第四章 半径五キロメートル生活――若者を覆う「既視感」の正体
第五章 ちぢこまるケータイネイティブ――若者はなぜ安定を望むのか?
第六章 つながりに目覚めた若者ネットワーカー――新村社会の勝ち組とは?
第七章 近頃の若者をなぜダメだと思ってしまうのか?――世代論を超えて
謝辞
「ある男子大学生の《1週間、全送受信メール》」

【概要】


はじめに

著者が博報堂の若者研究所に配属され、若者調査を開始したころの話、
若者が「空気を読む」ことの敏感になっているということに気付いたエピソードが書かれていた。

第一章 ”読空術”を駆使する若者たち――KY復活現象の謎

昔と比較して、言語的コミュニケーションの能力は低くなっているように思われるが、
曖昧さを理解するコミュニケーション能力は高まっている。例)内閣府調査「気の合わない人とでも話ができる」小中学生が2000年32%→2007年41%へ増加、
「コミュニケーション」は、「エコ」や「健康」などの流行のテーマと並ぶようになってきている。
若者へのインタビューや講演依頼を通して、若者が「キャラ」を通して、求められている自己像を演じる気遣いをしていると感じたエピソードを例に、今の若者の間では、本当の自分を無防備にさらけ出す行為はタブーで、相手の表情や場の空気を読んで、相手の望むキャラになることが、マナーや礼儀作法になっている。と述べていた。
『「空気」の研究』(著:山本七平)が1977年に出版されているように、昔から日本人には「空気」を重視する文化が根付いていた。高度成長からバブル経済に向かう中で自由や個人化が叫ばれ、地域共同体(村社会)の衰退により、「空気を読む」文化は徐々に廃れ、過去の産物になったのかと思われたが、実は、単に一時的に影を潜めていただけである。バブル崩壊と、後述する「新村社会」の登場により、再び「空気を読む」文化が再認識されるようになった。国語辞典制作者の金田一秀穂は、上記の意味で、「今の日本の若者はもっとも日本人らしい日本人である」と述べていた。

第二章 知り合い増えすぎ現象――”新村社会”の誕生

日本経済新聞2008年4月9日によると、日本の高校生の96.5%が自分専用の携帯電話を持っており、6~8割であったアメリカ、中国、韓国を大きく引き離した。
ドコモ・モバイル社会研究所調べによると、10代は14.24歳(中学2・3年)、20代は16.77歳(高校1・2年)から携帯を持ち始める。このような「ケータイネイティブ世代」は、かつての若者が経験したような、連絡を取れない苦労することが減った。携帯を何に利用しているかは、10代、20代ともにSNSがトップであった。(10代:24.8%、20代:30%)、ケータイ電話帳の登録人数(平均)は、40代でも159.0人であるのに、10代ですでに93.4人、20代で135.0人、30代で139.6人と、非常に広範囲な人間関係を形成する役割を担っている。また、電話以外にも、グループや、メーリングリストなどで、複数のグループに同時に登録している若者が多い。この人間関係の広まりにより、一人ひとりとの交流の質は昔と異なり、お互いの家族構成や現在の恋愛事情を知らないけれども「親友」である、という状況が生まれるようになった。基礎情報よりも、キャラ情報の方が重要になった。それにつれて、若者の消費は、「安い値段を多くの回数で」行われるようにと変化した。また、浅い人間関係が広く結ばれるようになったため、かつての義務性と継続性のある、「村社会」のような「監視社会」的性質が強まってきたため「空気を読む」文化が再認識されるようになった。と述べていた。
この「新村社会」は、拘束力があるうえ、かつての村社会よりも人的規模が圧倒的に多くなった。


第三章 村八分にならないためのルール――新村社会の掟と罰

①愛想笑いを絶やしてはいけない。・・・リアル、メール・ブログ上ともに愛想笑いを絶やしてはならない。
②弱っている村人を励まさなくてはいけない。・・・「鬱日記」や「病み日記」を書く人がいたら、励ましてあげるのがマナー。ただし、頻繁にそのような投稿をする人は、「KY」として、徐々に距離を置かれるようになる。
③一体感を演出しなければならない。・・・感情を共有しやすい便利な感嘆詞「やばい」や、グループ内で通じる隠語。等を使い、一体感を演出する。
④会話を途切れさせてはならない。・・・「即レス」がマナー。
⑤共通話題をつくりださないといけない。・・・趣味・嗜好が多様化してきたため、意識的に共通話題(「時事ネタ」等)を探さないといけない。
⑥「正しい事」より「空気」に従わなくてはいけない。・・・山本七平の「抗空気罪」、論理的判断と空気的判断の二重基準で物事をとらえなくてはならない。
⑦コンプレックスを隠さなくてはいけない。・・・周りに合わせないといけないため、コンプレックスは隠さないといけない。
⑧「だよね会話」をしなくてはいけない。・・・議論をして、相手の意見を否定したり批判するよりも、正解不正解のない「未来」の話などをする。
⑨恋人と別れてはいけない。・・・別れた後もSNSなどで共通の知り合いを通して繋がっているため、悪い噂に発展したり、過去の情報を流されたりし、「分別れるリスク」が大きい。
以上あげた、「新村社会」のルールから、逃れるための方法として、「キャラ立ち」がある。
周りから認められる「キャラ立ち」に成功すれば、空気を読まない言動でも許される。
例)オレオレキャラ(ナルシスト)、ぶりっ子キャラ、関西キャラ、介護キャラ、島根キャラ、洋服キャラ、「KY」キャラ、など。「キャラ立ち」があるわけでもなく、空気を読まなかった人は、「村八分」にされる。「村八分」とは、昔の「規約違反した者を、葬式と火災の二つの場合を例外して絶交する」という風習であり、「新村社会」における「村八分」とは、量的に人口規模の上で大きな違いがあり、質的には、ネット上の非現実部分でも被害を被るという点で異なっている。「新村八分」の特徴として、①晒される・・・個人情報をネットに流される②村十分・・・逃げ場のない徹底的な疎外。③縦社会の崩壊・・・対象が目上の人にまで及ぶ。④親も参加する。の4つをあげていた。


第四章 半径五キロメートル生活――若者を覆う「既視感」の正体

人間関係が広くなる現象がみられる一方で、行動範囲が極端に狭い若者も多くみられる。その原因として、ネット上の情報を見ることにより「既視感」を感じ、経験したことのないことを、経験したような気になってしまうからである。と述べていた。東京都内においても、非常に狭い行動範囲内で生活し、渋谷などの繁華街に行きたがらない若者が多く存在していると述べていた。

第五章 ちぢこまるケータイネイティブ――若者はなぜ安定を望むのか?

ネットで検索し、数個の情報に目を通すだけで、「理解した」と思う傾向がある。例)大学のレポートのコピペ(協力したわけでもないのに、内容がほとんど同じ生徒が何人もいた。)知識にとどまらず、価値観も大人の受け売りを鵜呑みにしがちであり、そのため、「平成的リスク」よりも「昭和的安定」を望む若者が多い。

第六章 つながりに目覚めた若者ネットワーカー――新村社会の勝ち組とは?

ネットワークの広まりにより、大人以上にネットワークを活用する若者が増えた。大規模人数のイベントを行ったり、立場や所属の違う人々で集まることを可能にした。そのことにより、かつては異文化であった様々な文化が融合するようになり、(例:オタク文化とギャル文化、がり勉とジャニーズ系)生活階層の上流、下流の交流が盛んになり、階層間の移動も流動的になった。「新村社会の勝ち組像」として、生活階層が上流、下流どちらともバランスよくつきたい、下流からはファッションや異性の口説き方などを学び、上流からは、競争的な環境を得る、どちらに偏ることもない関係を築くことである。と実例を交えながら述べていた。また、生活階層が下流である若者も、SNSなどのネットワークを利用することによって、世界や視野を広めていくことができる可能性が増えた。ということを実例を通して述べていた。このように、ネットワーク形成能力が今後より人生において重視されていくと考えられるため、今後「賃金格差」から、「ネットワーク格差」により格差が論じられていくのではないか、と述べていた。

第七章 近頃の若者をなぜダメだと思ってしまうのか?――世代論を超えて

この章までの総括を行っていた。
ケータイネイティブは、SNSなどのサービスを利用することにより、広く浅い、しかし継続的な人間関係である「新村社会」を形成し、その中で「空気を読み」ながら関係を維持している。新村社会は、その村人の口コミにより、「既視感」を強めることになり、行動範囲を狭める要因にもつながっている。しかし、その反面、意志と行動力さえあれば、「地域・偏差値・年代」を超えて有機的に人とつながっていけるようになった。そして、前者と後者の間に「ネットワーク格差」が生まれるようになった。
若者を語る際は、「若者批判」か「大人・社会批判」のどちらかに偏ってしまいがちであるが、若者の現状を見つめようとする姿勢を持ち続け、「世代論」を決めつけや思い込みにしてしまわず、「時代論」(携帯やSNSの登場は他の世代にも影響を与えている。)としてとらえられるような視点が必要である。


【感想】

「さとり世代」と同じ著者が書いた本を読みました。
若者に直接インタビューを行い、若者の現状をとらえようとする。というのは、実践的な社会調査であり、現実味のあるリアルな実態であると思いました。しかし、発行が2010年であり、調査はそれ以前に行われていることを考慮すると、もうすでに、「ひとむかし前の若者論」であることは否めない。と思いました。(LINEが登場していない)しかし、現在にも十分通じる部分が多かったです。

「空気を読む」文化が以前からあり、バブル時代の時だけ影を潜めていた、という主張は、

斬新であり、しかし、納得のいくものでした。
また、若者が「空気を読み」、その場で求められている「キャラ」を演じる、という表現が、現在の若者をリアルに描いていると思い、しかしそれが「日本人らしい」現象であるという指摘にも、考えさせられました。

「ネットワーク格差」という言葉も、革新的で、しかし、的確であると思いました。

今後も、ネットワークをうまく築ける人と、うまく築けない人との間に、情報的にも、生活の質的にも、大きな差が生じて来るだろうと簡単に想像できました。

しかし、いたずらにネットワークを広めることだけを意識したがる若者というのも問題だと思います。例えば、Twitterのフォロワー数を競い合うように増やしたりする若者とか。

「新村社会」の特徴は「広く浅く」ではあっても、その中にも継続性があり、それぞれの人ときちんとそれぞれの「関係」が存在していることが前提であると思うので、無駄に増やしすぎても、その人たちと最低限の「関係」も築けていないと、それはあまり意味がないのではないかな、と思います。そのような若者像は描かれていなかったので、2010年以降になって登場してきたのかな。と、想像しました。

【個人的評価・理解度】

文体は非常に読みやすく、サクサク読み進められました。
「空気復活論」は斬新であり、説得力があるので、卒論にも取り入れたいと思いました。