2013年7月27日土曜日

JENESYS2.0中国大学生訪日 交流イベントに参加して

今日、学生団体を通して知り合った友達から誘ってもらった、
外務省が関わる日中交流イベントに参加してきました。
本当にいい経験ができました!

まずはグループに分かれて清水寺を観光し、その後、討論会を行い、夕食を食べました。

観光では、自分が日本のことについて知らない、うろ覚えな事ばかりで、
例えば、、、清水寺本堂の入り口にある鉄の下駄と杖、これは何!?って聞かれて、
弁慶が履いてたんだっけ・・・?って思ったけど、自信なくて答えられませんでした。。。
まともに紹介できたのは、
「清水の舞台から飛び降りる」っていう有名なことわざくらいでした。( ;∀;)
外国の人に日本文化を紹介するのは難しいです!
そして、質問に対して何回か「分からへん( ;∀;)」って言ってたのを、
それすらも、「大阪の方言だ!」っていって喜んで、真似していた彼らを見ると、
なんか、申し訳なくなって、もっと日本のこと勉強しようと思いました!

討論会では、勝手ながらも、自分の卒論のテーマである「中国の面子と日本の空気」を提案したら
興味を持ってくれて、それについて話し合いました。
日中学生の意見交換の中で出た話を簡単にまとめます。

面子文化について。
中国人は、他人に対して関心が強く、また、他人と競い合う意識も強い。
だから、自分の立場にふさわしい行いであったり、身分にふさわしい物を持っていないと
「恥である」という一つの考え方と、
もう一つは、自分の立場をより高く見せようと、自分の身分以上の行いや、物を求める
「虚栄心」という二つの考え方。
その二つの考え方が「面子」の中には混じっている。
という風に理解しました。

対する日本の空気文化は、調和を大事にし、皆と同じであること、
集団の中の流れや他人の気持ちを読み取り、合わせることが重視される。
「空気を読む」ことに失敗した人は「KY」として非難され、恥をかく。
それは身内だけにとどまらず、公共の場でも影響を及ぼす力である。
という風な意見にまとまりました。

そして、この二つの文化に共通する点は、まずどちらも「人との繋がり」の中に存在する文化であり、そして、どちらも「他者の視線」や「恥」を意識している文化である、という点です。

僕の卒論計画時点での仮説では、
さらに、どちらの文化も「他者の気持ちを配慮する文化」である、
ということを考えていたのですが、どうも「面子文化」はやはり、個人的要素が強く、
「他者の面子を考える」という話になると、あまり意見が出てこなかったので、
仮説が少し外れた気持ちです。。。
だがしかし、これに懲りずに研究を続けます。

こういう風に、生の中国人の話や、グローバルな視点を持つ人から
日中文化についての話を聞けたことは、大変刺激的でした!!

他の方の発表の中で、印象に残ったことで、
「日中の幸福感について」のお話をしているグループがあったのですが、
日本は社会貢献できることが幸せにつながると感じやすいのに対して、
中国は自分の目標を達成することが幸せにつながりやすい。
その違いは、それぞれの社会の中で「個人の余裕」の度合いが違い、
個人の余裕ができると、社会貢献的活動ができる。
ということが関係しているのではないか、というお話でした。
(僕の理解が間違ってたらごめんなさい( ;∀;))

その話を聞いて、社会貢献活動に参加するかどうかは、
その社会や個人の経済的状況の余裕、安定性など、
様々な要素が関わっているのではないか。と思いました。
もっというと、「国民性」と言われるものも、
それを支えているのは、その国の経済状況や、政治状況など、
その時代のその国民の生きる生活環境が国民の性格に影響を与えているのではないか。
という風に思いました。

そうすると、異文化間での価値観のズレを「あぁ、それは国民性の問題だから」っていう言葉で
簡単に片付けてしまう。というのは、国民の性格を「普遍化、一般化」してしまうことで、
その「国民性」の後ろにある、国民のおかれている生活環境や現状を見つめないようにしてしまう
危険性を持っている。と言えるのではないのでしょうか。

社会学的な考え方で、人間の行動の原因をその人自身の性格に求めるのではなく、
その人のおかれる生活環境や、生育環境に原因を求める。という考え方があります。
(社会病理学なんかが、それに近いかと思います。)
同じことが国民性についても言えるのではないでしょうか。

時代が変われば、国の状況も変わるし、そうすれば、国民性も変わるのではないでしょうか?
それとも、環境が変わっても、依然として変わらない
「受け継がれ続ける国民のDNA」があるのでしょうか?
皆さんはどう思いますか?
(もちろん、「どちらもある」というのが、一番無難な答えですが。)

この問いに答えるには、僕は歴史を知らなさすぎます。
真のグローバル人間、より深い相互理解を目指すのであれば、
受験勉強の時とは違う、より深いレベルまで歴史をもう一度勉強していこう。
そう再び決意できた一日でした。

活到老,学到老!

行田知広

2 件のコメント:

  1. 幸福感についての記述、それで正しいです。

    国民の性格を一般化することによる危険性は僕も感じています。中国人って言っても、何をさすのかが曖昧すぎるもんね。まずそもそも日本人の人口の約10倍いるだけではなく、地域によって考え方も民族性も違うので、実はカテゴライズすることは不可能であるというのが僕の考え方です。
    とはいえ、往々にして「中国人は自己中である」だなんて、勝手な一般論が一人歩きさせているのも現状です、個人的ですが。

    しかし、一般化するというよりかは、比率の問題として割り切るしかないのかなと思いますね。
    日本人よりも中国人の方がこういう人が多いくらいの言い方がベストなのかも。

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    1. 吉川さん
      コメントありがとうございます!スマホからなぜか返信できなかったので、
      返事遅くなりました、すみません( ;∀;)

      その通りです!一般化してしまうのではなく、
      こういう人が多い。っていう比率と捉えるべきだと思います!
      そしてその比率も時代によって、変わってくるんだと思います!
      だから日々、それを更新して、固まったイメージを持ってしまわないようにすることが、
      大事なんだと思いました!

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