2013年7月25日木曜日

高麗大学生の「退学宣言文」

先日読んだ『オーディション社会 韓国』の中に、出てきたとても印象深いお話を紹介します。
それは、高麗大学を自主退学する女子大生の「退学宣言」です。

2010年3月、ソウルの名門私立大学、高麗大学のキャンパスに手書きの宣言文が張り出されました。

『私は大学を辞める。いや、拒否する』

私は二十五年間、競走馬のように長いトラックを疾走してきた。
優秀な競走馬として、共にトラックを疾走する無数の友人を蹴散らし、それを喜びながら。
私を追い越して走ってゆく友人たちのために不安に陥りながら。
そうしていわゆる「名門大学」という初めての関門を突破した。
ところがどうだろう。もういくら激しく鞭を打っても足の力は抜け、
胸が弾むこともない。
いま私は立ち止まり、この競争トラックをみつめている。
その終わりになにがあるのだろう。
「就職」という二つ目の関門を通過させてくれる資格証明書の包みが見える。
あなたの資格よりも私のそれが優れていて
また別のあなたの資格に比べて、私の資格は無力で。
そうして新たな資格取得を目指すのがまた始まるだろう。
ようやく、私は気付いた。
私が走っているここは、終わりのないトラックであることを。
先の方を走っていても、永遠に草原には到達できないトラックであることを。

では、私の敵の話を始めよう。
これもまた、私の敵であると同時に、私だけの敵ではないはずだ。
名前だけが残った「資格ブローカーのビジネス」となった大学。
それが、この時代の大学の真実であることに向かい合っている。
大学はグローバル資本と大企業へ最も効率的に「部品」を供給する下請け業者となり、
私の額にバーコードを刻み付ける。

大きな学びも大きな問もない、「大学」のない大学で、
私は誰なのか、なぜ生きるのか、何が真理なのか問うことはできなかった。
友情も浪漫も師弟間の信頼も見つけることはできなかった。
私は大学と企業と国家、そして大学で答えを見つけろという彼らの大きな責任を問う。
深い怒りで。けれども同時に彼らを維持する者となった私の小さな責任を問う。
深い悲しみで。「勉強さえよく出来れば」全ては許され、競争で勝つ能力だけを育てて、
私を高価値の商品に加工してきた私が、体制を支えていたことを告白するしかない。
この時代に最も悪しきもののうちのひとつが卒業証書人生の私、
私自身であることを告白するしかない。

学費を用意するために辛い労働をされている両親が目の前をさえぎる。
「ごめんなさい。この機会を逃したら一生私を探せず生きていくしかなさそうなのです。」
多くの言葉を涙で呑み、春が訪れる空に向かって、深く、大きく深呼吸をする。
いま、大学と資本というこの巨大な塔から、小石のかけらのような私が離脱する。
塔はびくともしないだろう。だが、小さくとも、ひび割れは始まった。
同時に、大学を捨て、真っ当な大学生の第一歩を踏み出すひとりの人間が生まれる。

―――――――――――『オーディション社会 韓国』中の原文日本語訳 抜粋

韓国の強烈な「競争社会」を論述しているこの本読み進めていく中で
この文章が出てきたとき。すごく胸を打たれました。
彼女がとった「大学を退学する」という行為については、
批判もあると思い、僕からは言及しませんが、
(彼女は、大学を辞める勇気が萎んでしまわないために、この宣言を張り出したそうです。)
僕にとっては、「強烈な競争社会」を表現したどこか文学的なこの文章が、
とてもリアルで、競争社会の中からの悲鳴を聞いているように
僕の心に迫ってきました。

日本の競争社会にも通じるものがあると思います。
大学を「資格ブローカーのビジネス」と言い切っている彼女の思い切りの良さ。
日本でも大学が「ブランド化」しているとどこかで感じていた僕には、とても痛快でした。
もちろん、「いい大学に行く」ということに価値はあります。
でも、「それだけじゃないでしょう?」
そう問を投げかけられているような気がしました。
今はまだ、その問いにはまだうまく答えられません。

MOOC(Massive Open Online Course)「大規模公開オンライン授業」が
少しずつ広まっているという話を聞きます。
日本でも、学校で受ける授業より、
テレビで「世界一受けたい授業」の方が中身が濃くて勉強になる。とか
「TED」をみた方が世界のことを知れる。
なんてことが起こっています。
この「MOOC革命」が広まったら、今の大学の現状はどう変わっていくのでしょうか。
どちらにせよ、「学び続ける意志」は必要だと思い、
僕も、退学宣言をした彼女の勇気に負けないように、
気を引き締めて「学び」を追求し続けようと思っています。

行田知広

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